金曜の午後はここでは少し色合いが違う

今日は久々に休みの日にもかかわらず午前中に目が覚めた。

すごく気分が良かった。

 

起きてから少しだけ掃除をして、ゴミを捨てに行って、それからちょっとだけ歩いて家の近くの軽食屋さんでサンドイッチを食べた。日に照らされ続けたプラスチックの椅子に座ったら、物凄い熱を持っていて、お尻が焼けそうだった。でも、なんだか穏やかな時間を感じることができて、気持ちが休まった。

 

今日は、たそがれたかこ、という漫画を少しだけ読んだ。

帰る家があって、ちょっとした問題もあって、好きになれるものがあって、そういう日々の何気ない情景を描いているだけのものだけれど、今の俺にはたまらなく素敵なものに思えてひどく気に入った。

 

時間が経つにつれてより窮屈になっていく日常を、こんな風に暮らせたらいいなって思ってしまう。

 

そのために、ちゃんとカーテンを開けて、やるべきことをやって、せめて自分の決めたことだけはやり遂げるということが必要だろうと思う。

 

遠く離れた地にいても、今は回線一つでどこか別の世界の物事に触れられる。

そのことにちょっとした安心感を覚えてつつ、今日の残りの時間を後悔が残らないように過ごしていきたいと思う。

10年

相変わらずインターネット環境と部屋の日当たりが最悪で笑える。住環境というのは自分が思っているよりもずっと大切だったと重ねて思い知らされる今日この頃だ。

 

ていうか、クーラーがなくて普通に暑い。

 

今日はボールルームへようこそという漫画を読んだ。

とてもよかった。特に主人公のパートナーである女性の「あんたはとびきり良いやつだけど、私はもっと怖くて、ぎらぎらしている奴がいい」という趣旨のセリフが気に入った。なんだか、もはや推進力を失ってただ惰性で日々を過ごしいる自分を、そしてたとえ過去の負債を打ち消すためだったとはいえ何かに必死だったころの自分のことを、考えてしまった。

 

ここのところはただただ、もう静かに暮らしていきたいと、そう願う気持ちが強くなってきている。もう疲れたとか、これ以上頑張れないとか、そういうずるずると動きを遅くさせる気持ちが曇り空みたいになって胸の中を埋め尽そうとしている。

 

欲っするところもろくになく、ただ課題と愚かな時間の積み重ねが増えていくばかりの日々。

 

こういう日だってあることは身をもって知っている。でも知っていたって、しんどさはそこまでやわらいでくれないもんなんだな。

 

残念ながら、今も続いてしまっている。

そして俺がそれを選んできた。

これでよかったんだという言い聞かせることもなければ、割り切れているわけでもない。

本当に、単純に、その場その場でそうするべきと思って行動し、そしてそれを繰り返してきただけだ。

 

時間が10年経ったって、その間耐え忍び、身を焦がし追い求めてみたって、答えの見つからないものもあるのだと学んだ。

焦燥感にまみれた自分を今度こそはちゃんと抑えて、その扉が開くまで待ち続けていようとそう決めたとき、こんなにも先のことまでは想像もしてなかった。

 

今はただ、過ぎ行くままに任せて、心を隠して、うわべをうまくさらうことで、芯までは腐らないようにしている。そういう日々だ。

 

それ以外の方法ももうわからなくなってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

今のことだけを考えて暮らす

今日も、これからのことについて、不満を感じる日であった。物事が停滞している感覚が、寄せたり引いたりを繰り返していて、気持ちを不安定にさせる。

 

やろうとしたものがなかなかうまく行かず、がっかりしているだけで、そんな大したことではないと思うけれど、ただ、そういうちょっとしたズレが積み重なっていくことに、きついなぁ、って気持ちが強まってきてしまっている。

 

こういうとき、前はよく昔のことを思い出して、言い聞かせていた。何もなかった頃や、もっとひどい状態を思い描けば、目の前の状況などなんということもないと。そうしていれば、とりあえず自分をごまかすことができたし、過ぎ去った痛みや失敗のことを考えて気持ちを引き締めることができた。

 

でも今は、その薬も効き目が薄れてきたなと感じる。時間が流れて、想像もしていなかったような未来に立って、正直疲れの感情が優勢だ。

 

人と接することのしんどさや、自分と向き合うことの難しさ、漠然と感じる現状に対する違和感。最後にはダメになると頭で理解していながら、ズルズルと今を続けてしまっていること。そういう諸々のものが次第に確かな重みを持ってくる。

 

朝起きて、自分の意識が夢から覚める。昨日の続きとも言えないような漠とした思考が首をもたげる。変わらない部屋の景色が目に入ってくる。「せめてこれが夢でなければ、到底耐えることなど出来ない」そんなことを数年前は考えていた。それすら最近は無くなってしまった。ただゆっくりと時間を消化して、少しでも早く過ぎるのを待っている。

 

ただただ、飽き飽きしている。そしてそれを受け入れて、余計なことに首を突っ込むことなく、暮らしていく。それ以外のことを考えないようにしている。

 

最近は、酒を飲まなくなったから、気が滅入っているときでも、飲み過ぎからくる健康面での不調の心配をしなくて済む。これは良いことだと思う。

 

 

 

 

 

 

決して追いつくことのない幻影を追う

野望は常に現状よりも遥かに巨大で、そして時に耐えきれない重みを伴ってのしかかってくる。

 

外国語を扱うのにしても、何か一定の分野における洞察にしても、自分に何ら優れたものがないことにいつも途方に暮れる。そして、そのことに激しい怒りと悔しさを覚える。そういった感情に突き動かされて、死に物狂いで勉強をするも、その成果に満足できたことは一度もない。

 

誇るべきところのない自分をどうしてくれよう!

 

考えるよりもまず、手を動かせとは良くいうけれど、それで動くのだったら特に書いている!くそめ。

ゆっくりとは死なせない

余りにもありきたりだけれど、こんなはずではなかった、などという言葉が一番しっくりとくるようだ。

世界に出て、教育を得て、訓練を積んで、何かを為す、いや、せめて自分の虚栄心を少しでも埋めるようなことだけは、そう頭の中で考えていたのだと思う。

 

しかし現実はずっと生々しくて残酷だ。

人間は環境の生き物であり、また、古くから言われているように、心は鉄のようなものだ。それは熱い内にしか新たな形を作ることはできず、また冷えた空気に晒されたならば、そう簡単にはもう以前の状態を取り戻せない。

 

ただ緩慢に日々は続き、あったはずの何かはゆっくりと死んでいく。

笑えるほど、あっさりとこの時間は過ぎ去ってしまうように思える。

ただ時間が過ぎるだけならまだいい。きっとこのままではこれは負債として残ってしまう。

 

その全てを受け入れた上で、歩き続ける理由がないことを認めた上で、

それでももう、目の前のものにただ全力を尽くす以外に、俺は道を知ることはないだろう。それでいいはずだ。

 

いつ終わるとも知れぬものに、馬鹿げた熱量をぶつけるのでなければ、男とは言えない。

 

 

謙虚さと誠実さと凄みを探す

いつも自信があって、余裕で溢れていることが出来たらどれだけ素晴らしいことだろうと思う。現実は中途半端に高飛車で、それでいて臆病な自分に嫌気が指す日々の連続に過ぎないから尚更そう思ってしまう。

 

最近になって、少なくとも表面上はこういう風でいられたらいいな、と思うものが自分の振る舞いについて見えてきた。それは、眉間にシワを寄せず笑顔で、そこそこに物事をこなせるけれど決して完璧ではなく、そして人に穏やかさを与えられたら、というものだ。

 

日に日に自分の能力の限界を思い知らされては、うまくいかない毎日に辟易していく中で、せめて人間としての傲慢さや若さからくる棘が丸まってくれないと、俺はこの先まともにやっていける気がしない。

 

自分の中にある色んなわだかまりに、いい意味での折り合いをつけられたら、謙虚さと凄みを同居させたようなそういう人にも近づける気がする。

そんな風に出来たら、今停滞している全ての物事を、もしかしたら、初めて動かせる日がくるのかもしれないと思う。

 

続けることを選んだのなら、下を向いて歩いたらいけない。

もうこれ以上は難しいと感じて、絶望で顔も上げられなくなる日までは、正しいと思える道を探し続ける気概をもつ。

 

 

 

 

いまだに続くリハビリ

1日に1つは何かしらのために出かける用事がある方がメリハリがついて元気に暮らせるようだ。何かに集中しようとするときにも、多少余計な物事があった方がいいように。

 

今日は午後に人に会う予定があった。

いつもながら、自分ばかりが話してしまい、もっとうまく人から話を引き出すようにしていかないといけないなと改めて思った。

それでも少しずつだけれど、人と話すときに無理を感じなくなってきていて、

そのこと自体は望ましい。素直にこれを継続していきたい。

 

こうやって徐々に回復しつつある中だけど、今もし大きな何かが起きたら、そのときは立ち直れるのか自信がないな。

まだしばらくは、安静にして、様子を見て、自分自身や過去と折り合いをつけるために時間を利用することにしていたいと思う。

 

最低限のことだけはやりつつ。

 

どうせ、一度無くなっていたはずのものなのだから、

見栄も外聞もなく、せめて誠意を持って信じるものを貫くよう心がけていよう。